第34号(2001年11月) アメリカ型企業ガバナンスの諸側面
アメリカにおける個人退職勘定(IRA)の変容
―1997年納税者救済法による改革を中心に―
野村容康(当所東京研究所研究員)
- 〔要 旨〕
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アメリカの個人退職勘定(以下 IRA)は,1974年の従業員退職所得保障法に基づき,雇用主が提供する適格退職年金に加入していない従業員を対象に導入された。しかし,その後1980年代の二度にわたる IRA 制度の変更は,個人の IRA 利用に大きな影響を与えた。すなわち,参加資格制限が撤廃された80年代前半では,年々の拠出によって IRA は順調にその残高を増やしていったものの,1986年税制改革による,IRA 参加のための企業年金加入者への所得制限は,それ以降の拠出額を大きく減退させたのである。そういった背景の下,最近の IRA 残高の伸びのほとんどは資産価格の値上がりによるものと推定される。
そのような流れを受けて,1997年の納税者救済法(TRA97)では,退職貯蓄を充実させつつ,国民貯蓄水準の向上を図る目的で,IRA 制度が大幅に改正された。その主たる変更点は,これまでの伝統的 IRA を拡充するとともに,「ロス IRA」という新たな勘定を創設したことである。基本的に,伝統的 IRA が拠出・運用非課税,給付課税の扱いを受けるのとは反対に,ロス IRA は拠出課税,運用・給付非課税の関係となる。
本稿での分析の結果,このようなロス IRA の導入を柱とする TRA97は,貯蓄にマイナスの影響を与える可能性が高いだけでなく,「勤労者の退職所得保障」という IRA 本来の意義を揺るがし,必然的に所得課税による再分配政策目標をいっそう後退させるものと考えられる。そのように評価する主たる理由は以下の通りである。
第一に,ロス IRA では,適格要件を充たさないで引き出す際に,拠出部分に対するペナルティがかからないことから,そうした早期引出しの誘因が働きやすいことである。また,伝統的 IRA の拡充も,既存の確定拠出型年金プランとの競合等によって,IRA 利用者の増大には直結しにくい。第二に,ロス IRA は次世代への遺産継承のための貯蓄を有利にすることである。これは,ロス IRA には退職後の必要最低給付の義務がないばかりか,本質的に超過利潤への課税が不可能であるため,世代を超えた長期的な資産運用がきわめて有利になるからである。第三に,以上のような要因が絡み,ロス IRA が,比較的富裕な企業年金加入者にとって有利な資産形成手段となっていることである。最後に,新たな制度ではロス IRA は伝統的 IRA と競合関係に置かれ,後者から前者への移管も可能となっていることも,上記三つの傾向を増幅するという意味で重要である。これによって新規の拠出だけでなく,これまでの伝統的 IRA 資産も,ロス IRA によって侵食される可能性が生じているからである。